morikawa seiichirou / 空 蝉 utsu semi

フォークロア・ロック・アルバムとでも呼ぶべき音源

■Z.O.Aの森川のソロアルバムである。

morikawa

■かつてはS-AMERICAやブダガヤゴウマといったユニットをZ.O.Aと並行して行ってきていた森川が、近年めっきり慎重なZ.O.Aの活動と対照的に、自ら積極的な姿勢を見せているのがソロ・ユニットである。各々キャリアを積んだミュージシャン達によるフリーな要素も取り入れたプログレッシブなロックに、森川の語り調のヴォイスが絡む。これがこの数年継続されてきた「森川誠一郎」名義でのライブにおけるスタイルだ。Z.O.Aに対する自らの愛情と思い入れはその活動を年に一度あるかないかという非常にストイックなものにし、ある意味、自身を追いつめかねない状況にすらなっている。だがその一方、有り余るアーティストとしての表現欲求と試行錯誤の「場」としてやはりライブは必要不可欠なものであったのだろう。そしてついにそれはZ.O.Aとは別の独立した確固たるひとつの音楽体系を完成させるにまで至ったのである。

■具体的に今回のアルバムでは、今までのライブにおけるスタイルをベースに前述の通りフリーな要素、プログレッシブなフリーに加え、ジャジーな空気を多分に匂わせるアレンジも顔を覗かせ深みのある展開を見せる。とはいえビートが刻まれるフレージングは、まさしくロックそのものである。そこに極めて日本的情緒のある女性ヴォーカルが入る。そしてなんといっても全面を占める森川の語りである。

■「搦のブルース」というコンセプトは既に5年ほど前のライブでも見られたが、そのときのテキストは宮沢賢治だったように思う。が、現在の自身によるリリックの根幹を成しているのは、上を見な/飢えよ皆、といった言霊遊びも含め芥川の羅生門や末法思想に通じる日本独特な「情念」と「異形」と「空虚」の世界観。それを森川はロック・ヴォーカルのスタイルでなく、琵琶法師の如き口頭伝承のスタイル=語りで表現する。そうした「陰」の性質を多分に負った詞と対照的に、音は後半に入り「陽」の性格が顔を表す。

■舞踏の創始者、土方巽が晩年心血をそそいだ東北歌舞伎計画は遂に完成を見ることはなかったが、その中で土方が目指した「暗黒を突き抜けた後のカーニバルのような華やかさ」に非常に近い感覚を備えた開放感溢れるチューンで一旦終結へ向かうと思わせる。しかし、その夢の如き華やかさも長くは続かない。我に返ったかのように諸行無常の儚さを携えたエンディングで現実に引き戻される。やはり居場所は此処しかないのだといわんばかりに。最終的には、夕暮れの黄昏に立ち尽くす己の全身に支配する寂寞感とでも言うような感覚に襲われる。

■加えてこのレコーディング作品がライブで再現可能であるという点も重要ではないだろうか。以前より「ライブとアルバムは同じ」と発言し、実際Z.O.Aでも初期からオーバーダヴィングを極力抑えたライブに近いサウンドで作品を作り続け、ついにはライブ盤しか出さなくなり、最新アルバムはレコーディング作であるにもかかわらず、音はやはりライブのそれであったが、この作品もまた同じ構造といえる。正直にいえば、サンプルを聴いた時点では、レコーディング色の強い作品に仕上がったという印象であったが、先日のライブで幾つかの僅かな音源を除いてほぼ完璧に再現されていた演奏を聴いてその考えを改めた次第である。特にリズム隊にトリプルギターとサックスの絡んだ冒頭一曲目のイントロの音の分厚さは圧巻の一言であった。

■このように、今回のアルバムに対し森川はZ.O.Aとほぼ同一の方法論をとっている。ということは、はたしてこのプロジェクトとZ.O.Aとの差異はいったい何なのか、という疑問も湧いてくる。ユニットとバンドという編成の差異や、静と動という主にヴォーカル・パートに対する印象の差異はあれど、基本的な「森川のコンセプトを体現する」あるいは「森川自身を体現する」為の集合体であることに本質的に差異は無い。無いのだ。あるとすれば、先に加え、クレジット上の差異とそれに対する聴き手側の意識だけではないだろうか。事実、ぼくは今回のアルバムもライブも先のZ.O.Aのアルバムとライブと同じように、その紡ぎ出された音塊によって素晴らしい高揚感を得ることが出来た。そして、それは大袈裟に言ってしまえば、森川という人間の抽出された本質の一部に触れた事に他ならないのであるから。

■この数年繰り返し行ってきたソロ・ライブ活動が端を発し、ここへ来て森川の中で「何か」が成熟し一気に至高点へ登りつめた、そんな感じがする。その一瞬の熱さのようなものを逃さず素早く捕らえ、森川はこの一枚のアルバムに封じ込めた。だから活動期間の割に音全体に初々しさが漂っているし、楽器の音ひとつとってみても活き活きとしている。陰の部分(リリック)と陽の部分(サウンド)を併せ持った、今流行りの昭和歌謡ロックや三味線ロックとは全く別次元の和洋融合の作品を森川は産みおとすことに成功したと言えよう。高水準なフォークロア・ロック・アルバムとでも呼ぶべき音源の誕生である。と同時に森川はふたつのベクトルで自らの世界観を完璧に具現化する方法を手中に収めたことにもなるのだ。

text : 川口トヨキ(BACTERIA)

『空蝉』には他に類を見ない音楽が屹立している

■Z.O.A のフロントマン、森川誠一郎の初となるソロ・アルバム『空蝉』はさまざまなレベルで衝撃的である。まず、ヴォーカリストのソロ作であるにもかかわらず、いわゆる歌メロらしい歌メロを森川は一切排除している。古文や漢文のような詩が七五調に徹底した語りでアルバム全体を貫く。その語りに黒百合姉妹のLISAによる英語のナレーションが交互に絡み合い、さらにキーボード奏者でもあるSACHI という女性が唯一といっていいメロディを歌うが、しかしSACHI の歌は歌詞のないスキャット。つまり森川の語りを軸に彼の日本語とLISAの英語の対比、そして両者のメロディのない声に対しSACHI のスキャットによるメロディの声という多層性が編まれているわけだ。そしてさらに作品中随所に七五調とは別個の語りも挿入されている。例えば昭和天皇による終戦放送の詔勅を彷彿とさせる語調の語りや、“上を見なぁー/飢えよ皆ぁー”といった言葉遊び的応答部などが、陰に沈んだかのような七五調の語りにユーモラスな亀裂や場面転換のような効果を入れている。

■こうした豊饒な言葉と声の方法に音楽的生命を注ぎ込んでいるのが、Z.O.A で同僚の藤掛や黒木、田中、そしてゲストメンバーによるプログレッシヴかつジャズ・ロック的なプレイによるバンド・サウンドである。70年代のプログレッシヴ・ロックに親しい者なら、すぐさま反応するはずのフレーズやアプローチが、それとわかるかたちで『空蝉』には出てくる。例えば、アルバム出だしのフレーズはキング・クリムゾンの名曲「スターレス」終盤に出てくるそれにメル・コリンズ(最初期クリムゾンのメンバーでその後キャメルなどに参加)ばりのサックス・プレイが重なり、森川いわくアメリカの作家・ウィリアム・バロウズをモチーフにしたという「singing in the paper」というコラージュ・トラックではピンク・フロイド「マネー」のスロットマシン音になぞらえたかのようなタイプライター音がフューチャーされるなど、ある種のパロディを思わせるパートがある。こうしたパート、フレーズに対するありがちな反応を当然、森川は心得ている。「頭の堅い人たち」と彼は言うが、これだけ堂々と、なおかつ非常にわかりやすいかたちで構成しているからといって森川の意識に何か挑戦的なものがあったのかというと、どうやらそれもオカド違いらしい。「もう身に染みついちゃってるものだから、意識もへったくれもない」と彼は言う。確かにいきなり出だしから、それも初のソロ作でというのに「スターレス」ばりばりのフレーズが出てくると、どこか眉をひそめたくもなるが、聴き進むうちにそんなことはどうでもよくなり、総勢8人による言葉と声とスリリングなプレイにのめりこむ。そして終盤に至ると、それまで軸になっていた森川の語りが抑えられ、SACHI のスキャットが前面化する。まるで影と光がクロスするかたちで絶妙なグラデーションを描き、歓喜に満ちたカタルシスが訪れるのだ。

■最近の森川は辞典類や何かの資料を読みふけり、そこからイメージを膨らませて詩作に結びつける場合が多いという。つまり何かの作品化されたものからインスパイアされるのではなく、原点に拠るところが大きいという。『空蝉』の音楽は森川が事前に作曲したいくつかのフレーズを元に、あとはセッションで作り上げたものだ。つまり、この点においてもクリムゾンやフロイド、バロウズや昭和天皇は彼にとって“資料”なのかもしれない。

■『空蝉』に続いて別プロジェクト=仏陀迦耶降魔(ブダガヤゴウマ)のやはり1st 作と、久しぶりとなるZ.O.A 新作がライヴ盤というかたちでリリースが予定されている。森川によれば『空蝉』と合わせて、3作に触れてもらうことで、イメージの違いや変化、そして合い通じる部分を楽しんでもらえれば、という。ちなみに仏陀迦耶降魔の作品は森川が単独でDr&パーカッション以外の全パートをコンポージングしたオール・インスト作であり、『空蝉』と対になる作とのことだ。また、Z.O.A はあくまでもメンバー各人の個性の絡み合いをメインとしており、Z.O.A =森川というイメージは本人にとってまったくの認識違いとなるらしい。したがって『空蝉』がなぜZ.O.A の新作ではないのか、その理由は明白だ。

■いずれにしろ、『空蝉』には他に類を見ない音楽が屹立している。なるべく頭を柔らかくして触れてもらえれば自ずと音楽は浸透してくるだろう。

text : 石井孝浩 (FOOL'S MATE)

空 蝉 utsu semi
img
  1. 搦のブルース karami no blues
  2. 共鳴り resonance
  3. 空気と水 inhale
  4. singing in the paper
  5. 雫さす pierce
  6. 現身 utsu semi

このアルバムの歌詞 img lyrics

フロントカヴァーを拡大 (javascript:OpenWindow) img image

notes --
Recorded at es studio / Directed by Grand Fish/Lab
-- December 2002 release --
artists --
KAGEYAMA HIROYUKI-electric guitar,acoustic guitar,12-strings guitar&e-bow
TANAKA SHINYA-bass guitar&voice
FUJIKAKE MASATAKA-drums&percussions
SACHI-voice&keyboards
LISA-voice
KIMURA MASAYA-saxophone
KUROKI SHINJI-electric guitar
MORIKAWA SEIICHIROU-voice,electric guitar,keyboards,lyrics&produced

: : disc review --

■森川誠一郎と彼のバンド、Z.O.Aについて、簡単な説明を試みたものの、このCDの前には無駄な悪あがきにすぎない気がする。さらに先日、この作品をライヴで耳にする機会を得たが、その空間、そこで目と耳と肌で直接感じた感覚を思えば、これから書こうとしているレビューなど、何をか言わんやである。が、せっかくの機会なので、あくまで一方的な主観を、無理矢理言葉にしてみたいと思う。

■ここに収められているのは一般的に歌と呼ばれるものではなく、音楽と言葉である。森川が語る詩は、日本語の美しい七五調のリズムと、芳醇な言葉と響きの数々に彩られ、無限のイメージを広げてくれる。そして、ギターやピアノ、ドラム、サックスといった楽器から生まれる音楽と絶妙な均衡を保ちながら、濃密な空気を醸し出し、その中で張り詰めた緊張はどこまでも高まっていく。 決して耳障りがいいとは言えない。その世界の大きさや広さや深さに、圧倒され呑み込まれるような気がして、立ち往生してしまうかもしれない。しかし、最後の曲「現身 utsu semi」を聴き終えた後には、我ながら不思議な気がしなくもないのだが、光に満ちた穏やかな空間のイメージが残るような気がした。もし聴き始めて、躊躇してしまった人がいるのなら、とにかく最後まで聴いてみてほしい。CDプレーヤーが止まった後、きっともう一度、再生ボタンを押してみる気になるだろう。

text : 村山 幸(アプレゲール)

: : liner notes --

■This is a solo album of Seiichirou Morikawa (Z.O.A).

■Before he leaded his own units such as S-america and Buddha Gaya Goma at once Z.O.A. It is a solo unit that he has been active in positive posture of his own accord, by contrast with Z.O.A has been very careful in recent years. It is based on a progressive rock also contained an element of free music by the musicians experienced respectively. And Morikawa's voice in narrative tone interlaces with it. This is a style has been kept in several years under his own name. His love and intensity to Z.O.A makes its activity very stoic whether it performs one time or nothing in a year. And even it becomes a circumstance that maybe cornered him. But, on the other side, live performance will be an essential thing as the place for too much craving to express, also trial and error as an artist. At last it completed one another independent and firm music system different from Z.O.A.

■To be specific, in this album it bases on a style of the live performances until now. And as stated above, it develops the depth by an arrangement that has much atmosphere of jazz in addition to an element of progressive free music. But the beating phrases are rock surely. Female vocal with Japanese feeling entered it and further Morikawa's narration occupies whole.

img ■Although a concept named "Karami no blues" was already seen from their live performance about five years ago, the narrative text was Kenji Miyazawa at that time, I remembered. But the root of present lyrics by him is a Japanese peculiar view of the world from emotions, freaks and feeling empty. And it likes Akutagawa's "Rashoumon" and the belief about decline of Buddhism including some playing of rhymes, for example, Ue o mina (Look upper) / Ueyo mina (Be hungry everyone). Morikawa expresses them not by a style of rock vocal but of a narration like an oral tradition by biwa minstrel. But the sound appears another light side when enters in the second half of this album, in contrast to the lyrics which has such gloomy character much.

■Tatsumi Hijikata, a founder of Butou, put forth all his energy to The northeast Kabuki plan late in his life, but it wasn't completed at last. This album is seen once will go to a conclusion by the last vast tune equipped with a very near feeling to Hijikata's aim in his plan: "The brightness like a carnival after running through the darkness". However the brightness like a dream doesn't continue for a long time. It pulls back to real as if it comes to oneself by the ending with an impermanence of the world and the life of a person. As if it saying that no being place is without here. Finally it come to that a feeling of loneliness covered with all over as if when keeping standing at the twilight.

■In addition, it will be important point that this recorded work can reproduce on live performance. Morikawa has said, "My album is as same as a live performance". In fact Z.O.A has continued making the albums avoided using over dubbing as much as possible since their early years and made the sounds near live performance. And finally they have released only live-recorded ones. Although the latest was studio-recorded, the sounds were as same as on live performance. It can say that this one is also in a same structure. Frankly, I impressed the color is nearer recorded work when I listened to the sample. But I have changed such my mind since I saw their live performance on the other day. It almost perfectly reproduced the album expected a few tune. Especially the highlight was a gravity and thickness of the sounds at the introduction of the first tune by triple guitars, rhythm party and sax.

■Like this Morikawa takes almost as same method as Z.O.A in this album. Then there is a question what is a difference between this unit and Z.O.A. The differences will be each form such as a band or a unit, and an impression mainly for each vocal: quiet or aggressive. But they are same as basically a gathering to embody Morikawa's concept or his own in the music. About Z.O.A, also there will be a view Kuroki's existence is important. But the indicator of it isn't him but Morikawa, on their all activity includes deciding the timings for release and live performance. Then, are they same if it is? Probably they are essentially same. If there are differences between them, it will be only a credit and listener's sense to it. In fact, I could get wonderful feeling of spiritual upsurge caused by music, from this album and their live performance as same as Z.O.A's. If I exaggerate, because it was nothing but touching a part of extracted essences of a person: Morikawa.

■I feel that something ripened and went up to the top inside him. And it started from the solo activities performed in several years. He quickly caught a thing as a momentary heat without missing, and therefore there is a fresh atmosphere as a whole even closed up one by one of the sounds of the instruments. It can be said that Morikawa accomplished to create the work that had both a dark side (lyric) and a light side (sounds), and also harmonized Japanese and European. It is far different than the faddish Showa song rock or shamisen one. It is the birth of a sound source that should be called a high label folklore rock album. Simultaneously, it means that Morikawa has got a method to embody his own view of the world perfectly in two vectors.

Translated : Kazuhisa Murayama